お葬式ってなんだろう?

葬儀の数珠

 
 みなさんは、今まで人と死に別れた事がおありだと思います。この経験はそれこそ千差万別でしょうね。

私は50才を過ぎたところですが、過去に自分が影響を受けたと感じる別れを改めて数えてみますと、7回ほどありました。中にはその最後の時期に密接に付き合っていたケースもありますが、風の噂にきいた訃報もありますし、突然訪れた事故もありました。今でもなんらかの交流のある遺族の方々もおられますし、それきりの関係となった場合もあります。いずれにせよ、少なくともその時には、故人を通じて同じ時間と気持ちを共有したという記憶が残っています。

Wikipedia
葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理するか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。*1

私はここ数年は日本に暮らしていますが、若い頃から仕事の関係で、生活の場自体が、ほとんど海外各地であったため、日本の葬儀に参列できたのは残念ながら一部です。海外でも数回あります。しかし参加した葬儀や告別式での経験は、いずれもとても深いものでした。

ご遺族や参加者たちの意識は、日常とは異なります。見知らぬ者同士でも、国籍や人種が違っても故人への想いを通じて、眼と眼で語り合うような不思議な場が生まれます。語り合う中で、今まで知らなかった故人の思いがけない一面を伺い知ることも少なくありませんよね。

故人と近しい方たちが一同に会したその濃密な空間から、故人本人だけがすっぽり抜けている、その違和感からかえって故人がくっきり浮かび上がります。その強烈な故人のイメージを感じるため、人々の会話や、目にするものをきっかけとして、心の中での会話が生まれることでしょう。ですので、葬儀や告別式といった場は、故人をより深く知るための最良で、もしかしたら最後の機会である可能性が高いのです。つくづく人間は関係性の生き物なんだなあ、と思う時でもあります。

私はどちらかというと人情家というより、実際的な人間だと自分では思っていますが、他のことならば「彼/彼女は亡くなってしまったんだ。体の抜け殻しかないのだから葬式にいくのはナンセンス。」といった筋道で考えるほうです。しかし、若い時に上記のような経験をした機会が何回かあったせいか、葬儀に関しては参加したい、と思います。行けば、なにか意味があるとわかっているからです。

一方、「葬式は不要」といった意見を、最近よく見聞きするようになりました。私も儀式張った、心の交流のないお葬式は苦手ですが、不要とは思いませんでした。私の考える方法はこうです。「愛する家族、友達がもし亡くなったら、お葬式をしてあげたいか?してあげたい。じゃあきっと必要なんだろう。」。しかし、今どうしてこの不要論が目立つのでしょうか?葬式は不要なのか?、それはどのような意味で言われているのだろうか。次はその事について考えてみたいと思います。


*1 葬儀 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%84%80

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